釜山を代表する独立運動家、安煕済(アン・フィジェ)の記念館
アンニョンハセヨ、プサンナビです。日本人観光客が多く利用するホテル、外国人向けのお土産屋さん、日本語の看板がたくさん掛かった食堂などがたくさんあり、日本人観光客が多く行き来する南浦洞(ナンポドン)エリアの一角。実は、このあたりは、日本の統治時代には一番の繁華街として栄えた所だったそうです。そして、今でも昔の面影を残すかのように、日本風の古い建物がいくつか目に付きます。
そんな町並みの中に三角形の入り口がとっても特徴的な建物があります。この建物こそ日本の統治時代、祖国韓国の独立のために、人生を捧げた独立運動家安煕済(アン・フィジェ)氏を記念する記念館なのです。
安煕済(アン・フィジェ)
安煕済氏は釜山を代表する独立運動家で、教育、言論の世界にいたるまで幅広く活動をした運動家でした。慶尚南道(キョンサンナンド)宜寧(ウィリョン)郡富田面立山里(プリンミョンイプソッリ)で生まれた安煕済は、ソウルで勉学を修めた後、故郷で啓蒙活動に勤め、1910年の韓日併合により、国勢が悪化すると、ウラジオストックに渡り、独立運動を開始しました。ところが、活動を共にする仲間のうち一人が肺結核に倒れると、その仲間の休養を兼ねて気候の暖かい釜山に。しかし、その当時の釜山は商権までをも日本人が掌握している状況、それを見た安煕済氏は、日本の経済力に対抗するため1914年「白山商会」を設立します。
実は、この記念館が建っているこの場所こそ「白山商会」があった場所でもあります。
白山商会はもともとは穀物と海産物などを売る個人店舗でしたが、その後株式会社になり、規模も大きく拡大します。安煕済氏はこの「白山商会」での売り上げの一部を上海にあった臨時政府に資金として送金し、独立運動の資金援助をしていました。また、「白山商会」は独立運動家たちの拠点としても使われて、独立運動のアジトとなっていました。
安煕済氏は独立運動の資金調達だけではなく、釜山市内の韓国人学校の設立要求、優秀な若者を留学に送るなどの教育活動もおこないましたが、「白山商会」は、厳しい取締り、資金の供給と負債のために1937年に倒産し、安煕済氏も釜山を離れることになります。その後も『中外日報』の社長に就任し、言論を通して総督政治を批判する言論活動、また、1933年には満州にわたり大規模な農場を作り移民者の定着や教育活動、太?教(韓民族の始祖である檀君を祀る韓国固有の宗教)を通した民族独立運動にも力を注ぐなど、投獄生活(1942年に逮捕、1943年に病身保釈)の後、1943年病院で息を引き取るまで、絶え間なく民族独立活動に生涯を捧げました。
記念館内部
安煕済氏の愛国精神を称え、その活動を次の世代に伝えるためにと1995年に建てられたこの「白山記念館」は地下1階の第1展示室と、地下2階の第2展示室に分かれています。
第1展示室
入ってすぐのところに安煕済氏の座像が飾られた第1展示室では安煕済氏の出生と成長、教育活動、白山商会設立と運営、言論活動、国外独立運動基地建設などのテーマに分けられたパネル説明、写真などを通して安煕済氏の活動の記録を知ることができます。
第2展示室
第2展示室は、様々な独立運動家の活動や北朝鮮の生活などを紹介する写真展示会など、企画展示が行われる場所として使われています。2003年8月15日~10月31日までは「 太?教と韓国独立運動特別企画展」が行われています。
残念ながら、展示室内には日本語・英語などの説明がありません。ただし、第1展示室入り口入って直ぐのところにあるインフォメーションに行くと、日本語の説明も書かれたパンフレットをもらうことができるので、それを参考にしながら見学すると良いでしょう。展示品自体もそれほど数がなく、また、日本語の説明もないため、韓国語が分からない限り、展示された内容を100%理解することは難しいでしょう。でも、普段、私たちが観光客として往来している通りにあるこの建物にも「こんな歴史があったのか」「このような歴史上の人物がいたのか」と知っておくこと自体にも意味があるのではないでしょうか。以上、プサンナビがお伝えしました。