五陵(慶州)

オルン오릉

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新羅建国期の王たちが眠る5つの陵墓

アンニョンハセヨ、ナビです。慶州の市街地から少し南へ行ったところに五陵(オルン)という場所があります。その名の通り5つの陵墓がまとまっているから五陵。新羅の建国期を支えた王たち5人が眠っている場所です。新羅の建国は紀元前57年。はるか約2000年も前に国を興した人物たちはどのような墓に眠っているのでしょうか。五陵を訪ねてみました。
5つの陵墓の主は誰だ
5つの陵墓そのものは初期の墳墓だけあって、一切の装飾がないシンプルなものです。山型に盛られた緑の芝生が5基並んでいます。このれらの墓に眠っているとされる人物は、新羅初代の赫居世(ヒョッキョセ)王、赫居世王の妻である閼英王妃(アリョンワンビ)、第2代の南海(ナメ)王、第3代の儒理(ユリ)王、第5代の婆娑(パサ)王の5人になります。第4代の脱解(タルヘ)王を除いた建国初期の王がこの場所に眠っています。
五陵に眠る4人の王はすべて姓が朴氏ですが、第4代の脱解王だけは異なります。脱解王は姓を昔氏といい、南海王に優秀さを認められ婿養子として王族入りしました。もともと一族の者ではないため、脱解王の陵墓はここ五陵ではなく、慶州市街地から北に行った小金剛山の麓にあります。

五陵にまつわる伝説
初代の赫居世王は61年間国を治めた後、71歳で天へ帰りました。ところが、王の死後7日がたつと、王の遺骸は5つにわかれて再び天から落ちてきました。このとき王妃も一緒に亡くなったといいます。国民は嘆き悲しみ、王の遺骸をひとつに集め埋葬しようとしたのですが、このとき大蛇が出てきて邪魔をしました。国民たちはやむをえず5体を分散して葬ることにし、こうしてできたのが五陵です。
五陵の歩き方
五陵の入口は南側に位置します。入口の門を抜けてまっすぐ行くと突き当たりに浄化事業記念碑があります。ここを左に行くとぐるっと回って五陵へ。右へ行くと崇徳殿(スンドッチョン)、閼英井(アリョンジョン)へと続きます。左へ回って五陵を正面から眺め、五陵の右を柵沿いに歩いていくと、そのまま崇徳殿まで道がつながっています。左回りで1周すると効率的に見て回ることができます。
崇徳殿(スンドッチョン)
敷地の南東部にある崇徳殿は赫居世王の祭祀を行う場所として1429年に建てられましたが、豊臣秀吉による分禄・慶長の役で焼失してしまいました。現存する建物は1694年に修理したものです。境内には赫居世王と崇徳殿の来歴を刻んだ碑が立てられています。
閼英夫人の生まれた井戸
新羅の初代王である赫居世王は蘿井(ナジョン)という井戸のそばで卵から生まれました。同じく閼英王妃にも神秘的な誕生伝説が残されています。赫居世王が誕生したとき、村人たちはこぞって祝いの言葉を口にしました。喜びにあふれる村の中では、王妃を誰にするかという話も出ました。するとそのとき、閼英井(アリョンジョン)という井戸のそばに1匹の龍が現れ、その左脇から女の子が誕生したのです。喜んだ村人たちはこの2人の子供を聖児として育て、やがて国王、王妃としてあがめました。この閼英井が五陵の敷地内にあります。崇徳殿を抜けてさらに奥へ行くと、竹やぶに囲まれた碑閣があり、その裏手に堅く閉ざされた井戸があります。
広大な敷地に恵まれた五陵には連日多くの人がやってきます。広々としていて緑も多いため、ソウルの景福宮などのように結婚式衣装に身を包んだ新郎新婦が記念撮影にやってきたりもします。古墳見学だけでなく、のんびりと散歩をするにもちょうどいい場所かもしれません。天気のよい日。五陵を訪ねてみてください。以上、ナビでした。

記事登録日:2002-12-17

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スポット登録日:2014-02-19

スポット更新日:2014-02-19

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